shikanneiko20170622のブログ

生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)人間・全人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。shikanneiko「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」

shikanneiko20170622のブログ

生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。

「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」

生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。(続き-2-)

生きる意味及び意義とは何ですか?(中略)→(結論)ヒト・人間・人類は消失、滅亡、絶滅するべきだと思います。
(続き-2-)
 


shikanneiko
 


「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」
 


(前記事からの続きで御座います。)
 


何故か、世の人々は盲目的-狂信的に「生き急ぐ」…。
今も昔も-旧態依然として、「進歩・発展」の思想・傾向・志向・風潮・世相、を美徳として妄信-狂奔する…。
((人間の構築する)全社会-全世界を概括的に鑑みて、ほぼ共通一致項。)
生きる事に意義を見い出せない以上、或いは生きる事も死ぬことも等価値であるならば、何も鼻息を荒くして「生」に対して固執-拘泥する事など無いのでは?
(※註。但し私は、おおかたが、疲弊-辛苦-悲哀-苦痛、等を伴うであろう、受苦-受害-自傷-自殺-殺傷、の行為関連を提唱-推讃-奨励-勧誘している訳では決して-断じて無い。)
同様にして、「ヒト」という生物種としての存続にも何の意義があるというのか?
子孫繁栄を願う根拠-種の保存の確証的正当性、とはいったい何か?
出生-産生-出産-増殖という希求欲望の明確な意義、加えてその結果、の正当性-道義性。
このまま永続していって、それが何になる…。
生命の維持、及びその次代への果て無き継続の尊重ばかりが既に、実証されていないにもかかわらずの前提として、高らかに謳い上げられ、勝手に独り歩きをしている(もはや独走状態)。
目的先に在りきで、その目的自体の意義的根拠の、活発な意見の遣り取りを以ての充分充全な、対話・検討・論議や(これらの過程-経緯自体に就いても)、納得出来る説明など見聞した覚え、いまだかつて無し。
現在はもとより、過去にも、推知して未来にも、生きる事の意義の確実な証明をする事など、不可能に決まっている!


自傷行為だけにとどまるならまだいい。
それこそ自業自得であるから。
即ち、自己責任をきちんと自認-自覚して自己の不始末を処理する限りには。
自己領域の範囲内におさめているだけなら非難・弾劾はし難く、その罪悪は問えないかも知れない。
然し、他者(人為以外-人間社会以外。例えば、自然環境・他生物・生態系)に対して破壊殺傷などの害悪行為をしたりする、害他行為も平気で軽薄浅慮に当然・常識として定置、そして挙げ句に実行に及ぶ。
この事が、加速度的に横行-甚大多発し、もはや常態化しているのが現況-実態。
いわば、(当該対象に同意・許可を得ずしての)「自業他得」。
こんな事、この先も続けて行って良いのか?
当然「否」である。
斯様な邪智暴虐非道、許される筈が無いではないか。


「生」にも「死」にも何らの価値的な差異は無い。
それならば、いっそいない方が断然良い。
消え失せるのが善である。
絶滅-滅亡-消滅-消失した方が良い。
何よりも、莫大ともいうべき迷惑・凶悪害を被っている、本来は高尚で敬服-尊崇すべき、他者たち(全人類意外)の為にも…。


(あらぬ誤解は是が非でも避けたいですので、ここで前記事からの抜粋引用です。↓)
「産めよ増やせよ」の真逆即ちこれ以上ヒトを増殖させないように出産を禁止化すれば良いのです。
国際的な緊密強固な結託を以てして、子を産むこと、子孫産生、人間のこれ以上の増殖、を強制的に全面禁止にすればよいのです。
(これ以上、生(産)まない、増やさない、(最終的に)絶やす。
非産生・非出産・非出生・非増殖を世界全総合体として遵守・貫徹する事。
これ以外の解決策、そして救済策など在りましょうか?
これを即座に「悪」と決め付けるのは性急です。
例えば、思考方法の囚われ、というものをどうか御留意下さい。
それでも「悪」であるのならば何らかの理由・根拠がある筈。
それを御示し下さい。)


(※私が敢えて特に強調したいこと)
極々素朴な事です。
利己的要素を多分に(orすべてとして)含意する、「自分がされたら…」「もしも、わたしが(その何らかの当該事象を)被ったら…、受けたならば…」との思いを馳せる事。
これぞ「基本(理想とすべき社会及び世界の根本原理)」で御座いましょう?
即ち、簡素単純にして、始源元初にして、平易明解にして、金科玉条なり。
対象は何も人間だけに限らぬ。
「おもいやる」こと-「おもいやり-思い遣り」の大切さ。
加えて、「他者の身・立場になってものごとを考える事…」「シミュレート」の如何に難しき事か…。
(※敢えて註を喚起致します。
ここで「他者」とは、何も必ずしも「ヒト」だけとは限らぬという事に、よくよく御注意及び御深慮下さい…。
以下にところどころに出現する「他者」も同様にして、その意味での使用と御解釈下さい。)


そのひとつの挙例。
リアルな実体験と想像による追体験との圧倒的な差異。
そして、それ(決定的なギャップ)を補正する方法~妙案・両者の差-ズレを縮める-埋める為の方策や、注力努力の在り方。
これらをどうか是非とも、検討・熟考・配慮・勘案してみて下さい。
(例えば人間というものはいざ切羽詰まると(極限状態・危機的状況に追い込まれると)、平時-通常時とは打って変わったとんでもない異常心理に陥りますし、別人の如くに豹変します。
これは、夙によく知られたことだと思います。
私はこれまで他人による強制圧力のもと、幾度かの同じような経験(暴力的行為・犯罪的行為・人権侵害行為)をせしめられ、やはりそのような状態になった事が御座います。
ですので、抑圧される側や、弱者・少数派(社会的マイノリティなど)などの立場の、気持ち・心情といったものが、(飽くまで幾らかは、平和な世界を順調に歩んできた同時代(現代)に於ける一般・普通の人よりは)判るつもりでおりますのです…。
(過言でしたらば、申し訳御座いません…。)
然し乍ら、やはり限界というものの存在は如何ともし難く、すべてを網羅的に同情する事は残念ながら不可能であります。
或る種の一例ですが、その酷悪のひとつに違いない、ほかから押し付けられたものとしての「死」への不本意な直面。
「殺されたもの」の実体験を伝える、というひとつのパラドックス。
無論これは、「他者が」想像による追体験でしかその過酷さ-悲惨さ-凄惨さは語れませんし、記せません…。
然し、出来るだけ克明に近づこうという意志の「可能性」は、決して否定はされてはいない、という事に留意するべきであると強く思います次第なのです…。)
 


 


 


以上の私の思い(先述の前記事を御覧下さらない限りには、コンテクスト的に接続の支障をきたす事が大いに危惧されますので、何卒御参照を御願い申し上げます…。これは、その「前記事」への追補的な意味で提出致しますもので御座います故にて…)に対し、御意見・御感想・その他(無論、何でも結構で御座います)等々を御寄せ下されば幸いに存じます。
(その仰せが如何なる御内容(例えば、批評・非難的批判・反論・異論・叱責・助言・提案・挙例・疑問・質問・(論理的)誤謬性の指摘・拙文-悪文に就いての非難と矯正の教唆・技術的な(校正などの)指導・御助力・…等々)であるにせよ)明解な何らかの示し・回答を出せる人は、果たしておられますでしょうか…?
兎にも角にも、意思疎通・意見交換を始めない限りには、何も進捗はしませんし(私の個人的な主観-私見だけの「停止」。かかる独善に終わる事は極めて禁忌としており、回避-忌憚致したいのです…)、私の思い-考えがどう他者様に受け取られているのか、まさに五里霧中で、内面的には孤独の暗中模索の様相を呈しているので御座います…。
孤立無援(四面楚歌?)の真っ只中に位置する心境であり、苦悩・苦慮・煩悶・焦燥・心労・…はいよいよ増して行くばかり…。
更なる、自身の思考察の推進・発展・精緻化を極むるべく、どなたか是非そのお力を御貸し下さりませぬでしょうか?
是非とも、御教示願いたいです…。
 


私の文章構成、自認するくらいに悪文であるばかりか、編集技術(構想の断片を追加しまとめあげる事など…)等に於きましても、誠につたなく幼稚未熟で御座います…。
(例えば、スムーズな結構とは程遠い事・表現の拙劣さ(例えば、文章に、滑らかさ-柔軟さ-滑舌の技巧、といったものが無い…)・語弊諸々・説明の不充分さ・不適切な説明様式・論理的誤謬・文法的間違いの可能性・語彙の誤釈の可能性・…等。)
ここで以下に各種の補記-付記-追記(-蛇足?)をさせて頂きます事を、御寛容の心で以て御許し下さい…。
(前記事なども踏まえました上で)関連付けて戴けたら有り難いのですが、種々の雑感・随想の様なものを記述致してみます次第です。
「未完成」の様な体裁(纏まりのない追補-補足の羅列)、私の技術不足・愚かさに起因するもので御座います…。
安直な「付け足し」の様で、理解し辛い-難い事、と拝察致します。
面目無い限りです、誠に申し訳御座いません…。
 


 


「人類史の変遷・推移。」
文明・社会文化の在り方として、見栄え・形式だけを立派・豪華にし(まくっ)たとしても肝腎かなめの精神世界の領域が未発達なようでは、とても功績・精華などとはいえたものでは無いと思います。
「生きる意義」の解明が未然のまま、とうとうここまで来てしまった…。
まるで、基礎無くして人間社会という建造物を構築してしまっているかのようです。
(あれよあれよの、まくしたて・「畳み掛け」、式に。)
これを以て、「砂上の楼閣」と言うのでは?
もしそのような危うい構造の蜃気楼的なものなら、消え失せる(崩れ去る)のは早いし、消し去る(崩して壊す)のもいともた易い。
大切な原点の明確な意義付けをなおざりにして、飛躍的に或いは(意図的に?)直視せずに、あれやこれやと、色々様々な方面に於いて、論じては苦悩している、滑稽でぶざまな姿。
然し漫然とこの現況をみて、ストレートに笑って(嗤って)などはいられません、事態は深刻なのですから…。
即ち、こうしている間にも世界のどこかで無邪気・無垢・無辜の他生物たちが何らかの被害を受け続けているのだから…。
粗っぽく人類史を喩えてみるならば、いつの時期・時代の、ほぼなにごともが、初期の原型は同じままで、その様式や規模や程度が違うだけ、という風でしょうか?
いわば、数学に於ける概念「図形の相似」をみるかのようです。
只ここで、生物としての共生・協調という点に価値基準尺度を置いてみるのならば、旧態依然-現状維持ならまだしも、むしろ大きく退行・堕落・頽廃してはいませんでしょうか?
 


 


そして、「明日が保証されぬ時代様相。」
「気が付いたらいつの間にやら死んでいた…」
こんなこと↑が現実に起こり得る-起こってしまう-起こってもおかしくは無い、恐慌の-暴走の果ての、いかさまのゆがんだ時代(内実は破綻崩壊している文明社会)に、もうすでに到来してしまっているらしいという厳然…。
(そのもっとも恰好の代表例が、他でもない人為による「ICBM」の脅威でしょう…。
各種色々様々な将来-未来に就いての、美しく輝かしく素晴らしい、ユートピア的構想・栄光譚・希望に満ちた夢談義などがそれこそまことしやかに語られたりすることがありますが、それらの実現の前に、各主体相互の大量殺戮兵器・核爆弾の応酬で、少なくとも人類社会が崩壊-破滅する方が先なのではないでしょうか…?
ちょっとした消極的な憧憬・夢想ですが…。
せめて、ヒトのみをその殺傷能力の対象とした兵器は…。
他・外界には、迷惑・破壊・危害を及ぼさない兵器は…。
(※「危険思想!」などと呼べますか…?))
そこで自然と内面に浮上して来るものとは、即ち…。
こんな時代を生きる我々の思考形態・パラダイムといったものは、自動的に意識的にも無意識的にも、刹那主義・享楽主義・無難安定志向・自己保身性向などに走りがちになる、というのは容易に考えられよう事では御座いませんでしょうか…?
世相的に、実際にこういう人々が増大しているのではないのですか?
通底していると思われるのは、安楽・安直・場当たり・その場限り的・軽薄短慮、な思考方法に傾倒し耽溺するという姿勢。
(尚私の以上の推定的「分析」「解釈」に就いて、とんだ見当違いでしたらば素直に謝ります…。
御指摘下されば幸いで御座います…。
たかだかせいぜいが「(事実を見誤っているものとしての)ステレオタイプ」的な思い付きに近似したデタラメでしょうか…?)
 


 


「(例えば、専門分化の増長や推進と共に)膨張累積し続ける複雑錯綜性と諸問題に対しての、統制や解決の、限界性・無理-不可能。」
世の中はいよいよますます、複雑化・錯綜・混迷、を深めるばかり。
日頃顕著に感じられると思われます、価値観念の多種多様多極多元化・新規概念の莫大な過剰増産などが、その良い例では?
たとえ何とかして法規律で巧みに統括・制御・解決策の発見、がかなったとしても、又しても問題・議題・課題は累積し続けます。
もはや、法規律体系・ルール・規範・規則・約款などでの統御保安体制が、この諸カオスの甚多大な奔流に追い付かなくなってしまっているありさまです。
このコントロール不能不全となってしまった概況は、今後-将来的に進展をみて改善したりするどころか、更なる増悪化の道へと突き進んで行く事は、推して知れようことでありましょう…。
(この場合に於いては、諸弊害要素の累加積算の果ての「多重債務」的状況に対しての、「破産宣告」(という或る種の救済策・責任回避逃亡方法)的なものは講じられてはいません。
まさに、つけ・しっぺ返しを主体的且つ客体的リアリティを以て、即ち(当事者のみに限らずに)全世界をひっくるめての一蓮托生・総体として「補償」「返済」をしなければならないのでありましょう…。)
もはや、「統御出来ない限界点に来ている」のではないのですか?
必死に解決策-救済策を模索してあがいても、迷走-紛糾を深めるばかりか、かえって煩雑なカオスの悪しき増殖を助長する結果にもなりかねません。
残念ながら如何に試行錯誤を敢行しても、所詮は無駄に決まっていると強く思うのです。
(当該案件への諸対策が必要に応じて、供給されようとも、その内容たるや充全な対話・論議・検証・思考察・具体的計画性などの不足-不備や欠如に由来すると思われる、(浅はかな即席式作成に、或いはいわゆる「対症療法的」処理に、典型的・特有にみられる、限界・悪弊害・汚点からか、)内容のお粗末・ぞんざいなものである事が非常に甚だしいです。
例えば、
うわべだけ-表層的・浅層的なものに過ぎなかったり、
巧みな補完が不充分であったり(いわゆる「ザル法」とか)、
実際に適用するにあたり機能不全をきたすもの(現状・実態・事実などを、的確に冷徹に精緻に入念に、分析や検討などの確固たる把握をしないで創り上げた「机上の空論」的なものなど)であったり、
すきま余白だらけのマガイモノであったり、
曖昧にしたりぼかす事が容易に可能で、なお且つ恣意によりいつでも「甘える」事が出来る「緩衝地帯」「逃げ道」の存する計画的意図的に用意準備された(策謀・詐術・奸計、的な)作成物であったり、
(民主主義などの)理念・正当の原理・(実現-完成するべき)諸般の「徳」関連の本分、等に即しておらず精密さに欠け、その場しのぎのぞんざいで粗雑な何の配慮も無い強要的な「包括」「一絡げ」手段であったり、
哲学的方法を経ずに創出され、その必然として「徳」「真理」「道義」「倫理」「正義」「合理」「道徳」に適う-則っている、もの、とは言い難いorでは無かったり、…。)
いわば、永久無限ループ…。
(「水掛け論」式。
いたちごっこ然。
永遠の「もぐらたたき」ゲーム・無尽の「しらみつぶし」・出口の無い迷路、といったイメージとも呼べるかも知れません…。)
人智を尽くしてももはや各種各様・多岐にわたる膨大な問題群(しかも今後も際限無く累加)の統御など出来ない限界点に既に到達してしまっている…。
(そこで登場して来るのが-御降臨をこいねがうのが、コンピュータ制御という事になるのでしょうか?
擬似的「神」=「コンピュータ」。
人ではない、まさに「超人」です…。
これに依拠-委託-依存-委任する事…。
いわば、「人工神」という概念(人が神を創生する)の登場。
(何と皮肉な事にも…、といった感慨があります。即ち、「神話」シナリオの逆を為すが如くであるからです。)
尚これは、
「カリスマ不在の時代」
「メシア降臨の願望希求」
などの言い回しと連関・通底するところがあるように思いますが…。
(盤石の信頼を置く事の出来る某(なにがし)の待望。
代替的カリスマor新規カリスマへの強く大きな期待。
※ところで、少しく質問させて頂きます。
こころから安楽して信頼し得るに足る(生命事象に関する領野・身体並びに精神の領域などの重大な面を預託出来るような、具体的でシンボリックな指導者の様な、模範ともなり得る、)カリスマ的メシア的存在って貴方には、漠然とでも何かしらの心当たりが御座いますか?乃至は実際に心中に確然と存在していますか?)
神という「命」を創り、そしてその「命」に「命」をあずけるという構図。
(まるで既視感があるようなかんじの、幻想架空小説・創作物語、の如き様相では御座いませんか…?)
このような↑領域-分野は、俄かに且つ巧みに多面的な深い考察を以て、観察や分析や検討などした上で、理性的に的確に説明・論議・批評する事は悔やしくも、いまのところ(多分に今後も…)非力に過ぎる私にはかなうべくもないです。
斯界を専門としている権威にはまさにとんだ「部外者」に過ぎぬ私の、所詮は瑣末な下らぬ物言い~駄説にしか映らないのはひどく自覚致しております…。
但しですが、漠然とした所感・情念・予感-予兆といったものを申し上げますと、説明しようのないなにがしかのいびつで悪しきものを感じさせますのです…。)
 


 


「意義を見いだせないままこのまま果て無く惰性で生きる事。」
各種の「知」に従事する、学者先生がたも解決出来ぬ最大難問。
即ち「生きる意義」の、確実な証明の模索・(真の正当性をもつ)その「根拠」の(決定的解答としての)探求。
(哲学及びその周辺の思想的世界の碩学が、(「知」の領域のひとつである)科学の立場からの援助・協力を得た上で、即ち最高峰の斯学の学術(科学や技術)及びその結集としての学際的「知」の領域を以て、それらと連携をし共同してあらゆる議論・試行をしても、いまだ結実の相成る事はみていません。)
ここで、以下に私が他人様からこれまで頂いた、意見感想その他諸々の一部抜粋を挙げてみます。
(※註。
ここで「意見感想その他諸々」とは、私の前記事に直接に宛てられたものではなく、私が他のチャネルを利用し、そこから前記事を参照させたうえで届いた、間接的なものです。
直接の記事内での何らかの遣り取りは、何故か今まで全く御座いません…。
それだけ酷い悪文であるのだとすれば、まさに忸怩たる思いで御座います…。)
 


「その人がその人らしく生きる事は賛美されるべき事だし、決して横槍を入れたり、邪魔をされるような事があってはならない-してはいけない、…云々」の要旨や、「個々人が生を全うするのに誰からも何者からも制限される事は無い筈だ、何人も平等で自由である、自己実現に向けて生きる意義を各々が模索探求していくのは尊重されるべきであり、他者からとやかく差し出でがましい事を言われる筋合いではない、…云々」の要旨。
上記の意見がありました。
そうかも知れません、確かに。
然し私は断定して憚らないです、「否」である、と。
斯様な、理想論的文言はもうさんざんに見飽き聞き飽きているし、又たとえその実現が本当に相成ったとしても、私はそれを否定します。
その理由は前記事や先述を御参照下さい。
つまりは、他者は眼中に無いヒト-人間-全人類だけの自己中心的な世界像のおこがましさ。
自分たちの幸せの追求の為ならば、他者をまで押しのけたり蹴落とし犠牲にしても良いというのでしょうか?
これはどう考えても「悪」としか思えないからであります。
(生活の快適性や幸福を求めるが余りに他者存在を配慮しない、という身勝手で悪辣な魔性、これは誰にでも判じ得る論を俟たない「わるい」ことである事は、火を見るよりも明らかでは御座いませんか?)
「そうまでしてでも生きたいのか」といいたい…。
(例えば身近で想起に難くない判り易い例として、畜産業と漁業の世界((大抵は食料に供される)家畜-被飼養-被養殖-狩猟-漁獲)・実験台生物・ペット愛玩動物・見物-見世物対象化・森林伐採・森林破壊・海洋汚染・異常気象・生物種の恣意的改造-加工(「品種改良」・遺伝子組み換え、など)・大気汚染・気候改変・砂漠化・…などから由来する犠牲者(犠牲物)の立場に思いを致す事が出来ないのでしょうか。
これらの犠牲者の尊重すべき生命の寄与的損失のもとに、人間社会というものは成り立っているのです。
せめても、本来は愛すべきこれらの多大な生命たちの、強制された貢献・犠牲を前提とした虚構虚飾の人間社会という世界像を、先ずははじめに謙虚にしっかりと認識-銘肝するべきです。)
このような社会システムの常態化は、究極的な真理-まことの道義-「(この先選択・重要視すべき進路としての)ひとのみち」、とは断じて言い難いです。
(※尚御注意頂きたいのですが、単に陳腐であるからとか、新味が無いからとか、そんな卑小なことを理由にして、上にみる皆々様がたの御意見群に「非」を打つわけではないです。)
私は書きました、「自己内に納まっている分ならばまだいい」と。
自己責任の範疇での事なら確かにその「御意見」通りの道理かも知れません。
自分自身が引き起こした災難・不祥事を全て自己御当人が引き受ける-ひっかぶる分には何ら咎は無いのであります。
それこそ「自己負担」「自業自得」であるのですから。
しかし人類以外に害悪行為、「害他」を行っているのは、もはや明明白白。
人間相互間のみ-ヒト同士だけの、殺し合いや破壊行為ならばまだしも、罪の無い無辜の憐れむべき、他生物たちまでをも巻き込んで、死なばもろともを遂行するのは、人道に反する苛烈極まる悪逆非道行為そのものでは御座いませんのでしょうか?
それとも、この悪魔の所業をこそ以てして、これぞ「人道」と呼ぶ、とでもいうのですか?
 


こんな意見↓もあるようですね。
「子孫繁栄願望。これは、生物としての本能だから…」
→「?」
都合の良いときだけ「本能」「野性」「原始的な本性」を振りかざす、狡猾な変わり身の早さ、だらしなさ、見苦しさ。
恣意的に原始・古代に驚愕的時代錯誤を以てして舞い戻ったり、「自然の摂理」を持ち出し「生物元来の原点」との関連付けを敢行したり、のいわば日和見主義…。
呆れてものが言えません。
時と場合に由りますが、少なくともこの件に於いては一貫した一途な態度を遵守してほしいものです。
理性を以てここまで文明というものを築き上げた生物種であるならば、その理性を以てして必死に何とかして「(自己存在の)意義付け」を見つけ出さなくてはならぬのではないのですか?
理性的な根拠の無い即時的・直覚的なこの理由。
私には誠に失笑ものにしか映りませんのですが…。
 


「(限りなく)しあわせを追い求め続ける特性をもつものであるから…云々」
→「?」
先ずは、何を以て「しあわせ」と呼ぶのでしょうか?
不朽の「マザーコンピュータ」の完成?
(そして果ては「マザーコンプレックス」を気取るという段取りですか…?
※蛇足ですが、両者共に略称「マザコン」ですね。)
或いは、「不老長寿」?
もっと欲張って「不老不死」?
或いは、(各人がお互いを尊重し合う原則で)全て一切合切を意のまま思いのまま(自由自在)に出来る世界の具現・到来、を待ち望んでいる・を目指している、という事でしょうか?
(詰まりは、(所詮は人為的創作概念に過ぎない、)「神」「神様」のようになりたいとでも?
もしかして飽く無き諸々の探求・執着の目的・最終地点の、真相・正体とはこれですか…?)
何に価値を置いているのでしょうか?
人類総体はいったいこの先何を求めていくのでしょうか?
目指しているもの、目指すべきもの、がどうも見えてこない…。
これらが、この期に及んでいまだ定まっていないというのが実情では御座いませんか…。
(総体では無く、個々別々の幸福の問題なのである、との声も聞こえそうですが、それは刹那主義的生き方或いは享楽主義的世渡りをする人々の増殖と連関しはしませんか?)
これも蓋し論外な物言いに感じます次第で、溜め息-嘆息しきりで御座いますのです…。
 


更には、(各方面に於いて)悩む事・苦悩・憂慮する事自体を目的化-正当化し、これが人間というものの本質であるとする、結局は居直り-開き直りにしか見えない意見。
(「知」を存分に漫遊-満喫するのには、別段異議は無いです。
但しそれは、外界に悪影響を及ぼさない限りに於いてであります。
「知」に取り組む事への「原則」「マナー」「行儀作法」(?)のようなものを履き違えたやからは、誤って「知」を高貴尊尚なものとして決め付け、果ては神聖化-神格化の如くに定置し、それに関与する程度の、小さい-低い~無い者たちを、侮辱蔑視する方向へと次第に傾斜していくのでは御座いませんか?
軽んじられる対象者即ち、迫害される者として、無論それは内輪の人間界に限った事でない事は言うまでも無い事でしょう…。)
某当該者(ヒト)それぞれが悠長に-お気楽に「なやんで」いるその「同時」に、刻一刻と世界のどこかで貴重な生命(他生物)群が何らかのかたちでおびやかされている、というのに…。
何という、「おめでたさ」…。
「知」を愛するなどというと、いっけん聞こえはいいですが、かかる概況を鑑みるにあたり、私に言わせればそれは単なる一種の強欲であるだけであると思う次第です。
人は間違いや失敗をしながら成長をして行くもの、だから必要悪として仕方が無いのである…、というのも身勝手な述懐にしか聞こえない。
当該世代の失態の過程を、更にそのまた次の世代が繰り返すという、連鎖的構図に於いて、又してもそのとばっちり・災厄・負債を、被る-背負わされる-転嫁されるのは人類以外です。
各世代の惹起した悪弊害の総集累計は、時間の経過とともに計り知れないものになるのはこれまた自明の理です。
遊び半分・面白半分・興味本位の試行-実験、などのていたらくでやられては、たまったものでは無い。
(例えば、往々にして「いくらでも失敗・挫折をしてもいいからね…」「次があるから…」などとの諭しの常套シーンがありますが、易々と勝手に保証(「失敗は成功の基」の濫発)しておいて、実際はその安請け合い・無断契約の迷惑・損害の連発に巻き込まれる(債務を負わされる)のは他でも無い人間社会以外の側なのです…。
認容許可同意一切無しの連帯責任の強要。
「いい」筈が無いです…。)
人間側がもし何者かの身代わり-犠牲にされたらどういう気分でしょうか?
(ヒトだけが熱弁してやまぬ風情がある)自己生物種至上主義とでもいうのでしょうか?
これに就いてだけは、人間世界全体で奇妙な事に一致している観があります。
 


以上に加えて「お前こそが(模範を示すべく-率先して)死を選べ!…云々」などとの要旨もかなり多数あり…。
この↑乱暴野蛮痴劣な文句。
蓋し、怒り任せ…。
「ha…?」の一言。
(どうも、大概の人は勘違いをしているようなのですが、私は「自殺せよ」だの「集団自決せよ」だの「~を殺せ」だの、の類いを言及致した事は一度たりとも無いです。
まっとうに伝わっていない悔やしさのひとつです…。
「(自分を)誹謗中傷されている!」「(わたしが)攻撃されている!」とでも、直感的浅慮で以て感じたのでしょうか…?
このような方々(フィーリングの世界の住人)に、再度前記事内容をよくよく御覧じろ、と申し上げたいです。)
とんだ感情論的かつ浅薄幼稚・陳腐常套な、そしてお粗末で貧しい文言としか言いようがありません…。
(勿論これ以外にも、おおかた私の記事をざっと見て適当にかいつまんで、気に食わぬ所の、揚げ足取りをしたり、熱心に粗探しをしてくる-きたような内容の「回答」も沢山ありました…。)
そこには何の論理的説得性が微塵にも垣間見る事が出来ないです。
まじめに-真摯に問題に向き合う-直視する、姿など感じられぬ…。
その意向を前提としても、ならば、道義性・合理性・正当性を踏まえた上での説明を以てしての、その意思の歴たる理由・根拠を示してくれればよいものを、それさえ示さず揶揄皮肉悪口暴言だけ吐いてそれっきりトンズラ…。
蓋しまったくお気軽にして卑劣、私のこころのなかでは脱力的な「アハハハッ…」であります…。
本気-正気で物申しているのでしょうか?
そんな誰でも容易に気付く-思い付く、のが出来よう初歩的な事柄、いやしくもこの私が今まで、考えなかった-苦悩してこなかったとでもお思いか?
直観的に内容を大雑把にとらえ、軽薄短慮な気持ちでの侮辱蔑視意思の伝達目的、或いは性急に興奮-激昂してのほぼ悪意だけを突き付ける目的、としての発言に違いないでしょう…。
更に、主張と矛盾している(「絶滅-滅亡-消失を提唱しているおまえ自身が何故生存しているのか!?」「言行不一致だ!」とか。)とでもお思いなのでしょうか?
それでは、私が生まれてきた意味は何になってしまうというのでしょう。
「死」という事実に到る事、即ちすべてに先行する自我というものが存在しなくなれば、元も子も無いとしか言いようがない…。
包み隠さず申します、「私は生きたい」。
加えて、直截に言わせて貰えば、辛い・苦しい・痛い、思いをするのは「もう」懲り懲りウンザリで嫌であります…!
主体性を充全に発揮して、私らしくあるがままに生きたいのです。
(※野放図な我が儘を地で行くのとは全く以て違います、何卒誤解無きよう…。)
なぜか?
私の存在の意義を探求しその本懐を遂げんが為です。
(「意味」ではありません、「意義」であります)
(※では、その「本懐」とは?
ここでは敢えて申し述べたりは致しません…。
大変リスキーに過ぎますゆえに…。
おそらくは推知出来よう事ですし、ストレートに歯に衣着せずに記述しようものなら、その結果の極めて惨憺たる事は、まさしく自明の理であるからで御座います…。)
 


ひとまず現時点での総括で御座います…。
以上を鑑みました上でも、やはり私の内面でどうしても動かしがたい最終結論で御座います…。
少なくとも「理性」というものを以て文明を築き上げて来た、全人類・ヒトという生物種、は同じくその「理性」を以てその人類史というものに、罪悪感・責任感・謙虚な謝罪の念・犯罪行為の決然たる自覚、を以ていさぎよく終止符を打つべきであると思います。
(「(発展的な)幕引き」「栄誉ある譲歩辞世」等として考え直す(最低限には、再考や思考転換を試みる)のは如何がでしょうか。)
「哲学は、死ぬる-滅する、事と見つけたり」
(※註。
以下のように思うのです。
「我、思ふ。
哲学とは(その行き着く先、究極には)死ぬる-滅する事と見つけたり」
と…。)
他生物にしてみればジャマモノの存在が消え失せた事など、認知~認識されないかも知れないし、知覚ですらさえもされないかも知れない。
然しそれはそれでよいのではないでしょうか…。
それこそ人間・全人類の「自己満足」的・独善的・耽美的な自身への打ち止め-けじめ付け、であっても、その結果は他者存在を配慮・尊重するという事に連関するのであり、大いに、ほまれ・誇り・大義・名誉、のある事なのであるとわきまえた方が、(逆説的かも知れませんが)かえってその実(相)は、(ヒト総体の意思としては)いさぎよく「幸せ」と呼べるものなのでは…?
これこそ「有終の美」では御座いませんか…?
 


「いやそれはおかしい」「そんな筈は無い、お前は間違っている!」などの異論・反論・駁論・持論をお持ちの方よ。
おのれの信念・矜持とするところや、積み重ねて来た薀蓄・(多年の)経歴上の功績や実歴・「武勇伝」を披露したくてうずうずしている御仁達よ。
勝ち負け・勝敗という次元にひどく固執拘泥頓着する衒学者様方よ。
このままでは私のひとり舞台であります。
口惜しいならば、諭してみて下さい。
諫めてみて下さいよ。
さあ、たしなめてみて下さい。
どうぞ、咎めてみて下さいな。
我こそはと思う方、どうぞ喝破でも論破でもしてみて下さい。
いままで論駁し倒された覚えは一度たりとも・一切無し、というのが私の正直な実感です。
((もし「生意気!」「大言壮語を!」「バカの分際で!」と御聴こえならば、)御留意頂きたいのですが、別に尊大ぶっているわけでは御座いませんし、(奇)妙な自己陶酔に浸かっているのでもありません。
記事内容に就いて自慢や誇示をするような性分でも無いですし、「上には上が存在する」事を考えれば、みだりに軽率な発言など出来ようもありません…。
(現代に於いては蓋し稀有と思われるその様な勇気の要る事、「何と畏れ多くも…」「滅相な…」という謙虚の情(裏を返せば利己保身的な自己防衛心理)が働いてしまい、結局は遂行に到らないというのは私だって同じです…。
つまりは、いわゆる「小心者」にしか過ぎません…。)
やけくそに、居直ったり・開き直っているわけでもないです。
勝ち誇っているような勝利感、優越感、或いは誇大妄想的自信のようなものとも全く以て違います。
ましてや自覚的に、自身単独の世界で虚勢を張っていたり、自尊孤高を決め込んでいるのでは断じて御座いません…。
(前述のように他者との交流・コミュニケーションの意欲は大いに御座います。)
御理解頂ければ幸いです。)
 


 


斯様な事を、不器用この上なく具申する私という者に就いて。
「何を気宇壮大な事を…!」「誇大妄想か?」「一愚民の分際で何を生意気な…!」との思いも御在りで御座いましょう。
(そんな事すらも重々自認はして御座います。)
しかし敢えて申し上げます。
少なくとも私の人生は一回きりしか保証されていない、という事を。
即ち、スケールの大き過ぎる夢物語であろうと、何とかこの与えられた一度だけのチャンスに、我が本懐を遂げねばならぬという事です。
(※註。
上記から類推~邪推して、何か物騒な事をしでかすのでは、とかの誤解或いは曲解はしないで戴きたいもので御座います。)
私自身の問題としてのみならず他の方々にも言える事と思いますが、個別事象に逐一いちいち拘泥しているようでは、命がいくつあってもとても足りやしない事は自明な事でありましょう。
世界-社会に溢れる、膨大な些細な事象諸々にとらわれていては、限られた人生(人生ゲーム)という制限時間-タイムリミットの冗費、であるに相違ない筈。
あれもこれもに、構っていようものなら-関わりを持とうとすれば、瑣末な事への執着の連鎖ばかりですべてが終わってしまう…。
(無残な「バッドエンド」、むなしき「ゲームオーバー」…。)
由って、可能な限り挙動の無駄を省いて、情報受容摂取や自身入力や自己発信などに於いて、出来るだけ適切な当該種類の取捨選別を要求される事は必定の理でありましょう。
(世の中に山積している-し続ける、「ナゼ?何故?」「謎」の類いへ積極的に関わりをもち、思索や問題解決処理に励む事。
或いは、多種多様な因果関係の究明に勤しみ明け暮れる事。
これらを、過剰多大に~すべてに於いて、我が一身に背負う-抱え込むような事をしてしまったら、全く一向にきりが無い……、これは考えるまでも無く当然である事とは思いませんか?
ただ何となく生きて、ハイ、それで終り…。
それでも良いのですか…?)
判じ得易いよく似た具体的例としては、いわば、ハードル走競技のテクニックのようなイメージでしょうか?
即ち、障害物を跳び越える際に、ただ高いだけの跳躍では非ずに、出来るだけ最小限の飛躍を以てして、スタミナ-体力の温存節約及びタイムの縮減を、用意周到に計る-打算するという感じの…。
「万骨」として枯れ果て埋没する事無く、如何に首尾よく自己実現を完遂させるか。
すべてはおのれの技量次第…。
ところで尚、衒奇趣味に基づく無責任な軽々しい気まぐれや、ガセネタ(を)スキャタリング本位での所思表明でもないし、私自身が不断からそれを地で行く人間であるという訳でも御座いません。
個人的には私自身に、自己顕示欲求や他者による自己承認願望が存する事は、どうしても否定は出来ません…。
しかし敢えて申し上げたいのですが、私のそれは決して、いわゆる興味本位とか(享楽的な)趣味とか金銭的経済的利得営利欲求とかの意味合いで、意見・主張の提起・運動をしているわけでは無い事です。
表現に難航しますが、苦行・執念・ノルマ的作業感覚・義務感・緊迫感・絶望感・使命感(バカみたいですか?)をもって臨む…とかそんなニュアンスで取り組んでおります次第です。
ふざけ-面白-遊び半分などでは断じて御座いません、これでも「真剣勝負」でやっているつもりなのです…。
深刻な状況を鑑みての私の個人的な想いを緊急性を以て伝えなくてはならない、という責務(?)を痛切に感じるからこそ、敢えて自己顕示をするので御座います…。
由りまして、歓喜の情・幸福感・快楽感-悦楽感・充実感-充足感・カタルシスとかいったものとは、およそ縁遠いものであり殆ど楽しくなんか無いです…。
むしろ、気持ちが著しく塞ぎ、落ち込み、暗澹として、滞り、進退窮まるといったところで、もがき喘いでいます…。
「希望の光」や将来への明るい展望-期待、などは全く見えて来はしません…。
常に強い抑鬱感情・閉塞の念に苛まれておりますのが実情で御座います…。
(例えばですが貴方は、社会生活において、何かしらの、よからぬ邪悪な得体の知れぬ、支配・抑圧・拘束・統制・捕縛を被っている(将来被る事になる)ような茫漠とした憂慮-憂鬱の感覚-情念みたいなものは、御感じになったりはしませんか?)
更には、無力感から由来する自己嫌悪の念の積もり積もる事甚だし…。
(これに付随して内心に於いて、(私の言うところの)「他者」をなんら救う事の出来ていない厳然たる事実を踏まえ、苛立ち・良心の呵責・罪悪感も当然の事ながら日増しに膨張してきているのは御判りで御座いましょうか…。)
然しあれやこれやと、考えあぐねる事を幾たびも繰り返し、思いを致した挙句、次のように(暫定的に?)自己納得するようになりましたので御座います。
即ちそれは、抑鬱状態でいる事の方が「まとも」であり、むしろ平然-平素-平気の風情をしている図太い神経の持ち主のほうこそがおかしいのではないか、と(いささかの自信を以て)考えるようになりました次第です。
(この事は、せいぜいが悪しき妥協の産物・開き直り・居直りにしか過ぎぬ、のでありましょうか?)
何しろ、世の中というものは、不安・心配・不快・不平不満の念・抑鬱感情を惹起する事象のオンパレードでありますし、絶えず様々色々な苦悩すべき問題・ストレッサー・難問-難題を我々に投げ掛けてきます。
そして暗黙裡に、打開策を講じよ、解決処理をせよと要求してきているようでもあります。
謎解きの輪の中に、それとなく誘導しているようにも見えます。
これをきちんと((殆ど)完璧さを以て)解決・整理出来ている人の方がある意味で、異常(者)の様に思えるのですが…。
(それとも、世の人ほぼ全員が、三面六臂の如くの活躍を見せる「超人」「神業の使い手」という事ですか?)
快活さ・充実感・充足感・自信に満ちた感情・(真の)自尊心、をもって生きよ、というほうが時代背景などを鑑みましても、もはや無理があるのではないのでしょうか…?
 


 


「他人の好奇趣味・猟奇心を煽る様なキャッチーさを狙った、扇情目的、或いは、「目立ちたがり屋」本位-根性などとも、とられかねない-誤解or曲解されかねぬ、テーマ・提題及びその内容に就いて…。」
滅亡・消失のススメなど感情的になるのは判らぬでもないです。
「何という不謹慎な事を…!」と。
然し冷静になって考えてみて下さい…。
肝腎かなめの「生きる意義」を、ないがしろ・なおざりにして、解明無くして、の「生」は所詮は惰性に過ぎぬという事を。
解明が未然であるのに、それを通り越して-飛躍して-超越して-すっ飛ばして、いるようではこの人間社会というものは幻想-虚飾の産物に過ぎぬことを意味しはしまいか?
(逆に言えば、基礎在ってはじめての「社会」「法規律」「政治」「経済」「共同体・帰属対象」「諸知学識体系」「産業」…等々の創出・派生となる筈では?)
ところで当案件を(これに限らない事ですが…)、先入観念・固定化且つ形骸化してしまった考え方・様々な形式的になってしまった方法論諸々・スキーマ・ヒューリスティック依存・ルーティン思考・パラダイム信仰・…、等々を前提とする前に、ふと・ひとたび立ち止まって、落ち着いて冷静に、これらをそもそもの根底から疑ってみる懐疑的な態度で、思考察をして頂きたいのです。
例えば、人間-ヒト中心思想や全人類至上主義に就いて、
「「全世界人類教」という名の宗教集団-団体・宗教的なものに、洗脳された-受洗を被っているのだろうか…?教化されたのだろうか…?」、
或いは「(自分は)集団妄想にとりつかれた一員であるのか…?」と考えてみるとか、
「思い込みへの囚われ」を検討するとか、
「初歩的な手品のトリックのようなものに引っ掛かっているのではないのか?」とうたがってみるとか…etc.。
以上の挙例やそれ以外等々を出来得る限り充全に鑑みた上で、自身の本来の主体的な思考方法が縛られているのかも知れない…、と随時考え直してみるのはどうでしょうか?
(私は(もはや月並みな文言内容かも知れませんが…)「ひとたび・ふと、立ち止まって落ち着いて冷静にものごとを考えてみる事」の重要性を猶も提起したいのです。)
 


 


「多種多様多元多極各人各様に存在する「現実」という概念に就いての戸惑い…。」
(その一つの例です…。)
形而上学的領域(?)・マスメディア系・(特に)文語的形式で表現をする世界、などで語られている「現実」と、身近な余りに平素過ぎる-平和安穏無事(?)に過ぎゆく(ように見える)日常の「現実」との、その圧倒的なギャップ・ずれ・差異に戸惑う-迷妄的になってしまう人々が大部分ではないでしょうか…。
私も御多分に漏れぬそのひとりですが、手掛かりとして「確からしさ」から鑑みるに、両者はやはりどこかでつながっている-相通じている…。
であるならば、これを「別世界」「異次元」「他空間」「特別事象」の事として切り離して、自己を納得させ割り切ってしまうのは、それこそ「現実逃避」している事に他ならないのではないでしょうか?
 


 


「「信頼関係」が基礎・根幹・前提である筈の人間社会で、あろう事か「人間不信」を示唆的・婉曲的に「教養」として刷り込み・教え込み、教え込まれ-身に付け、ることの本末転倒さ、そしてその事がごく自然な常識として定着しつつあること。」
これでは、もう既にその社会はみかけ-かたちだけのものであり、その内実-実相は破綻-崩壊してはいやしませんか?
常に鋭敏に四方八方に間断無く警戒センサーを張り巡らさねばならない、油断も隙も無い世相。
いついかなる時でも神経を研ぎ澄まさせておかざるを得ない(交感神経(を)働かせ続け、の状態)、否応の無い神経戦-頭脳戦を強いられる…。
周り中が、トラップ・罠・敵だらけで一寸先は闇の緊張感に満ち満ちた冷酷非情な世界像。
そして、相互の腹の探り合いや、騙し欺く事・騙され欺かれる事が既定の前提となった社会。
そこで、このような過酷な環境に於いては、巧みに生き残るために知識偏重という事が、いよいよ過大評価され続けて行く…(のでは?)。
(場を精神世界に移行しての「戦争」でしょうか…?
おおかたは、(何らか各種の)知学識(系)という「武器」を、持って-持たされて、「(重)武装」をし、社会という「戦場」へ、駆り出して行く-駆り出されて行く…、といったイメージの。)
これが人類社会の、遠い過去からようやくにして到達し得てきた答え(ヒト社会の導き出した最終結論?限界点?)だったとでもいうのでしょうか…?
こうした情勢-趨勢に対し、なにかの非常にいびつなものを感じるのは私だけですか…?
気のせいでしょうか?
 


 


(「ところで…」
私の言わんとしている事は何(の領域)に分類されるのだろう?
然し、この際どう呼称されようが構わない-余り気にしたりはしない。
この場合に於いて、形式・様式・名義・分類項目名称、等はさして重要性をもたない。
内実・私の思い-考え、が伝わればそれでいい。
私は私なのだから…。)
 


(齢38歳の際の作。日本人)

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